自 分 史

2002/12/15起稿

日記はいつも三日坊主、自分の中に残る記憶なら書くことが出来ると思い、羞恥心に拘らず、自分史を書いてみたいと思っています。
 記憶は自分にインパクトを与えたもの、また、影響を与えたものと思っています、ご意見,ご感想を戴けたら幸です。


 生まれたところ

 長野県下水内郡豊田村上今井

 豊田村は長野市と飯山市のほぼ中間付近にあって、前に千曲川が流れ、東に高社山(1352m)が聳え、その南に志賀高原と繋がっている。

 豊田村は信越五岳の一つ斑尾山の山麓にあり、ふるさとの作詩者高野辰之がこの山麓に生まれ、千曲川の対岸の中野市は、作曲家中山晋平の出生地、我小学校の校歌も二人の先生によるもので、その一節に

♪ 前を流れる千曲川,東に高し高社山 ♪

と謳われている、私の心の奥にはこの情景が刻み込まれている。

 帰郷の際、列車の車窓からこの風景が最初に目に飛込み、故郷に帰ったなーと実感したものである。

♪ ふるさとの山に向かいて言うことなし 故郷の山は有りがたきかな ♪

 家族及び家業(半農半商)

 家は村落(約500軒余)の中ほどにあり、道路を隔てた北側に氏神様がある、境内は遊び場であった。

1931/6/4出生(7人兄弟の次男)

祖父母、両親、兄弟姉妹7人(兄、私、弟、姉二人、妹二人)の11人家族。

 祖父は、養蚕の商売人、蚕の種、桑の販売等。左官業。冠婚葬祭のある家に行き料理人もやる。また、村会議員で議会に出る時は、トンビに中折れ帽ステッキと家は貧乏でもそれなりの格好をしていた、議長をやっていたのか、式典の折り呼ばれて出ていく姿は誇りに思ったものである。

祖母は、忍従の生活が一生涯続いたように思う、自分で自分の居場所決めていた、口数少なく、態度も控えめな慈悲深いおばあさんであった。

在る日、乞食を縁側に座らせ、おにぎりを与えたり、自分のキセルタバコを吸わせたりしていた光景が想い浮かぶ。

父は、婿養子、典型的な養子タイプで母の支配下にあった、無学だったのか、字を書くところを見た事が無かった、また、怒られたことも、教育的指導も受けたことが無い、ただ一度だけ、小学校高等科を卒業したとき、“一番下の仕事に就くのがいい”と言ったことを覚えている。

そんな父に一つだけ特技があった、炭を焼く事、硬く、火持ちがいいと近隣では評判が良かった。

母は気丈な人で家を仕切っていた、歳とって大腸癌の手術をしたが入退院を繰り返し、痛みに耐えられなかったのか、自ら命を絶ってしまった。

兄は、働き者で遊ぶことを知らない、冬は、学校が終わると父の炭焼小屋に行き父と一緒に帰ってくる。

祖父が兄にスキーを買ってやるが、体が硬く、板に藁人形をくくり付けたようなもので、1メートル程で転倒、ものにならない、心身共に遊ぶように出来ていなかったようだ。    

お陰でそのスキーは自分のものとなり、裏山に弁当持参で出かけたり、土手でジャンプを競ったり、遊びの中ではスキーが一番だった。

小学生初等科の頃

 1年のときの高野先生、着物に袴、背が高くメガネをかけ研ぎ澄まされた女の先生。

 1年北組は北側の角にあり冬は寒かった、いつも廊下に立たされていた、在るときついに漏らしてしまい小使いさん(用務員)が始末してくれた、今日も立たされていたと小使さんからお袋の耳に入っていたようである。

 2年生の長井先生は、寺の娘さんとかでぽっちゃりしていて優しい先生。

 三学期の初めに宿題である正月のかきぞめを兄が書いてくれたのを持っていったので、うまいと思われたのか、展覧会に書道で出す破目となり、このとき「たてよこ」と書いたことを覚えている(騙したら、お返しもあった)。

 3年生は関先生、柔道をやる先生で、体育のとき受身を習った。

 4年生は奥津先生、体操時間は蹴球(サッカー)と冬はスキー、スキーをやらない人は自習、スキーは得意中の得意。

 父兄会で母が、体操ができるからいいと誉められたと言う、初めて誉められる。 

奥津先生、関先生共穏やかな先生で親しまれていた、若くして戦争で亡くなってしまわれた。

合掌

5年生は長沢先生、地味な先生タイプ、野外写生で展示されたことが一回だけ在る。(なにしろ誉められるのは数少なく記憶に残る)

6年生は加藤先生、師範学校出たてのバリバリの軍国主義者、一人ずつ呼び出され、僕は海軍少年航空兵と大きな声で言わないとビンタが飛んでくる、クラス皆が海軍少年航空兵。

鮮明な記憶の一つに、算数のテストで満点に近い点を取った時のこと、答案を仕上げているとき先生回ってきて、いつも出来ないのに難題を解いている、疑惑をもたれ、先生が俺の席に座り、前の席の答案用紙が見えるか試している、前の席は、クラスで三番に入る頭でっかちのひょろひょろで、背中しか見えない、隣は通常は俺とどっこいどっこいで、解ける訳がない。

どうして解けたかというと、その当時だけ問題を解くのが面白くて本を一冊先にやってしまって、一番難しい問題をクリヤーしておけば後は問題無いと集中してやったのが、出てきてラッキーだっただけのこと、この期の通信簿の算数だけ、良上 が一つ飛び出し来期から平常の良に戻った、何故かというと勉強をしなかったから。

 初等科の頃を総括すると、家で勉強をした覚えがない、一番困ったのは日記をつける夏の宿題、最後に毎日同じ記事を書いて出したこと。

家に帰ったら遊びが主で裏のお宮さんの境内が遊び場だった、三角ベースのゴロの野球、かくれんぼ等、真夏になれば千曲川で泳ぐ毎日、5年生のとき横断できた、水泳も得意の一つ、冬は専らスキーに明け暮れる。

小使い稼ぎの一つに、山から薪を背負って下す作業、貧乏人の子供の集団で、割合面白かった。

小学校高等科の頃

学校には鍬を担いで登校するありさまで、山の平地を耕した(開墾)イメージしか思いだせない。

2年生の815日終戦、全生徒が校庭に集合、校長先生から戦争に負け、銃を捨て、銃の替りに筆をとり、文化国家を建設するという話を聞いた、教育の180度転換である。

いま、思うに教育の力は計り知れないものがあると痛感する。

翌昭和21年(1946年)3月卒業。

義務教育を終えて

在る日、担任であった近藤先生が家に来て、高校進学を勧めたようだが、経済的事情により断念。

学び場を失うと学びたくなるもの、青年学級(冬季のみ開校と早朝授業、後に飯山南高校定時制豊井分校)に行くことになった、

ここで学んだものは何か、マルクスの資本論(京大出身の先生が疎開して居ついたところを借り出されたものと思う)これがさっぱり判らない、英語this is a penから始まる。

1948年頃、兄が復員居る場所を失う、戦後の混乱期、職など在るわけが無く、戦死された農家に作男として働く。

元来農家の二、三男は婿養子に貰われるのを待っているのが通例、ここら辺が性に合わない、新聞の求人欄に海員養成所生徒募集を見つけ、これだと思った。

ただで外国に行ける、世界一周できる、少年の夢は広がった、今の時勢で言えば、宇宙に行くような遠い世界のように思われたものである。

試験場は松本開知小学校(日本で一番最初に開校)前日に近くに宿をとる、夕膳を持って来てくれたのは宿の娘さんのようで同い年ぐらい田舎娘とは違っていた、ときめきめいた(生まれて始めてのときめき)。

翌日試験場に行くと、白線二本を巻いた学生帽、こちとらは青年服に戦闘帽、ろくに勉強もしていないし、これは駄目だと思った。

19494月 国立高浜海員養成所入学。

場所は愛知県碧海郡高浜町、中央線長野駅から名古屋駅まで、蒸気機関車で約7時間(現在は約3時間)トンネルも多く窓から煙が入り、名古屋駅に着くと顔が煤ける、朝早く養成所に着き、始て見る海、心が広々とした早速足まくりして海に入り顔を洗った。(真水で塩気を取るのが通例であることが後で分かった)

いよいよ、名前を呼ばれ機関科に入学

(養成所の1年間の寮生活、一日7時間の授業、船に関する科目が多く、その外一般教養、専門科目は乗船経験のある教官で、体験談を交えながらの講義は面白かった。

夕食後2時間の自習時間、消灯は10時だったと思う、消灯前に人員点検がある、各班整列して当直教官に報告。

昼と夕食は司厨科生が作ったものを食べる、朝はパン1個に牛乳、とにかく腹が減って堪らなかった、週一回,高浜名物のアンマキが売店に来る,数が限られているので先陣争い、直ぐに売れ。

名古屋の名門高校を卒業した、奥田君は出来が良く全教科で使ったノートは二、三ページ,勉強しなくて成績一番、月に一、ニ度母親が重箱を持って面会に来る、いつも声をかけてくれて二人でご馳走になった。(食うことは覚えている)

一寸面白い競技を一度だけ拝見したことがある、数人が一列に並び、自己所有のプランジャーを出し、手動でピストン運動を行い、白い液体を前方に飛ばす。(僕は持ち物が乏しかったので、指をくわえての傍観者)。少年は何をしでかすか分からない。

この外、楽しいことは浮かんで来ない、ひもじかったことのウエイトが大き過ぎた。

1年間で船舶の基礎知識を学び、レシプロエンジンの弁線図を書くところまで進み、次のステップの入り口まで導いてくれた良い教育であったように思う。

19503月卒業

卒業しても乗る船が無い、戦争で商船は軍事輸送船として従事、大半が撃沈された。

就職出来たのは、ニ、三人で後は自宅待機となった。

故郷に帰って農業の手伝いをしていても田舎の目は煩い、7月下旬、神戸海上保安部に出頭せよとの電報が来た。

外国航路を夢見て船乗りを志した者であったが、5ヶ月も浪人しており、背に腹は替えられず、また、一刻も早く船に乗りたい気持ちがあり、大きな夢は崩れたが、この機会を逃すと何時順番が回ってくるか分からず、神戸に行くことにした。

出発前日、母が近い親戚のおかみさんを三、四人呼び送別会をしてくれた、ふなそこ一枚地獄と言われていた船乗り、心配してのことだったと思う。

トランク一個をぶら下げ、神戸駅に下りたのは、1950729日早朝、駅から海岸通りを歩き保安部のあるポートビルに向かった。

通りには、船会社のビルが立ち並び、右手は海、みなと神戸に来たんだと、わくわくするものがあったに相違いない、今はどうか、高速道路が走り、港が見えない、街が見えない、みなと神戸の情緒が無くなってしまっている。

産業発展優先の社会構造が続き、故郷、人間の情緒を奪い自然を破壊している、いったい人間の求めているものは何なのかを、立ち止まって考える必要があるように思われる。

田中長野県知事が、自然を破壊するダムの建設をノーと言った、一人のトップリーダーよって行政が変わる、いかにトップの資質、見識が大事であるかがわかる、田中知事に、高速道路建設凍結の小泉首相にエールを送ろう。

1950/7/29 海上保安庁入庁

1950/7/29神戸海上保安部配属 

乗船船舶:巡視艇 あきしも、巡視艇 CP12

最初に乗ったのは、巡視艇あきしも、最初の仕事は充電したバッテリーを船に積みこむ作業、バッテリーの上に脱いだ服を乗せ運んだところ、服はボロボロに穴が空いてしまった、最初の失敗、硫酸によるもの。失敗して本物を知る。

次に乗ったのは、CP12号、150トン位の蒸気船、水管缶一基、三連成汽機器2基を備えた本格的なツインスクリュウ、スチーマー、殆ど機関当直に入り、学校で習ったことが役にたち不安はなかった。

哨戒エリヤは主に大阪湾と播磨灘、在るとき、友ヶ島水道の島陰に不審船(外国船籍)を発見、捕まえたが、まだ新米であり、警備業務も判らず船務に従事していた。

1950/11/30 呉海上保安訓練所 

乗船船舶:巡視艇 CP12号(後に船名ありあけ)

CP12号は訓練所開校と同時に練習線船となった。

1951/3/31 第5管区海上保安本部(神戸)予備員 

1951/4/25 串本海上保安署

乗船船舶:巡視船 大井丸

始めての太平洋上での巡視船勤務、うねりに翻弄、船酔いに苦しみダウン、肋膜を患い入院、2週間程経った頃、無断で抜け出し故郷に帰り自宅療養約3ヶ月。

病後は乗船勤務は無理という配慮からか、陸上勤務を進められたが、船にのるために山から出てきたのであるから乗船勤務を希望した。

串本沖の太平洋のうねりは凄い、うねりの谷間と谷間に入ると隣の船が見えなくなる。

1952/1/1 同署 予備員

1952/3/18 神戸海上保安部

乗船船舶:巡視艇こうばい(儀装員)、巡視艇かわかぜ、巡視艇はやなみ

1953/4/1 海上保安学校入校

研修科程6ヶ月 刑法、刑事訴訟法,海事法令等受講。

1953/10/10 高知海上保安部

乗船船舶:1953/10/10巡視船あわじ、1955/8/25巡視船ともちどり

巡視船あわじ乗船中は主に東シナ海、李ラインの警戒任務に当たる。

ここでの勤務で心に懸かるものが一つ

入港日のこと、船の風呂では飽き足らず洗面器を抱えて暗い夜道から橋にさしかかったところ、川の中央付近で助けを求めている老婆を発見した、対岸から数人の人が綱を投げて掴まらせようとしているが、老婆は掴むことができないでいる。

僕のいる岸には、べか舟(推進機関の無い長さ四、五メートルの底の平な舟)が2、3繋いであったので、これを使って助けに行こうともたもたしている内に、対岸の人が救助したのである。

このとき、いろいろな思いで川に入るのを躊躇したのである。

このとき、なぜ、勇気を出して川に飛び込んでいかなかったのか、海上保安官なら当然執るべき手段でなかったかと、勇気を出すことが出来なかったことを反省している。

1955/10/31神戸海上保安部

乗船船舶:巡視艇おがたま

当時としても、数少ない蒸気船であった(スモークチュブボイラー、レシプロエンジン)。

1956/11/1 第四管区、名古屋海上保安部

乗船船舶:1956/11/1消防艇ぬのびき、1957/12/1巡視艇しののめ、1959/4/1消防艇ぬのびき

巡視船艇基地は名古屋市港区荒子川河口付近の愛知造船南側にあって、敷地内は航路標識の灯浮標の置き場で、西側は桟橋、東の一角に消防艇乗組員の待機所となっている。

1957/4/3 結婚

もう50年程前のこと、とっくに時効も成立していることであれば、一般的見解として、娶る妻は世界で一番の替え難きいい女として結婚するものに相違ない、また、僕も世界一幸せな男と自認し和服の似合う最愛の妻を娶ったのである。

住居は名古屋市港区中川本町6丁目、中川橋と中川運河の中間付近堤防道路下の海抜ゼロメートル地帯、四軒長屋の六畳一間の台所付き、風呂なし、共同の外トイレ。

伊勢湾台風

1957/9/26 台風15号(後に伊勢湾台風と呼称)は紀伊半島に上陸した後、北北東に進み、風速60メートルを越える暴風雨をともなって丁度満潮時となっていた伊勢湾を襲った。

この超大型台風により、名古屋港周辺の家屋は倒壊流出し5000人を超える犠牲者を出したのである。

当然当部においても非常配備が発令され全員部署に就いていた、このとき、基地待機室に詰めていたのであるが、夜になって段々風雨が強くなり停電、ロウソクを灯し玄関を覗いて見ると、たたきに水が進入して来たが雨によるもと思っていた、しかし、段々と水嵩が増し、そとは腰ほどまでの水位、逃げることも出来ず天井裏に上がり、おもいおもいに桁に跨り、話しをしながら台風の通過を待ったのである。

僕は、悲愴な無言で暗黒の闇の中にあった。

妊娠8ヶ月の妻が、堤防道路から50メートルと離れていない海抜ゼロメートル地帯に住まわせている、この濁流では倒壊し流されているに違いない、ただ、生きていてくれと祈るのみであった。

暴風雨が通過した午前0時過ぎに船長から家を見て来いと言われ、潮の退いた基地を出て表通りに出たところ,路肩に軒を連ねていた家屋は跡形も無く、電柱が倒れ、ものが散乱し道路は歩ける状態ではなく、最短距離を行こうと、堤防道路から降り、深いとこでは胸までもある水を漕ぎながら我が家へ急いだ。

我が家(四軒長屋)に着いてみると、玄関の引き戸は流され、六畳一間の畳は部屋の真中に積み重なっていた(部屋の中で濁流が渦を巻いたのであろう)、半間の押入れを開けたところ、物が一杯詰まっており、妻の姿は見当たらなかった。

直ぐに大家に行って見るとたなこの四世帯が二階に避難していた。

妻は、水嵩も増して来たので、玄関から外に出ようとしたが水圧で戸が開かなく部屋にいると、裏から呼ぶ声があり、隣人が四角の窓ガラスを破りそこから救出されたという。

8ヶ月の身重な体がどうして出られたのか、いまだに不思議だと言う。

床を水が洗う状態では住むことも出来ず、親戚の愛知県扶桑町に避難することになった。

1959/11/9長女出産

朝、陣痛が始まり、リヤカーに妻を乗せ近くの産婆さんに行った、田舎の広い座敷で産婆さんはなにかあったら直ぐ走って貰はないかんで傍に居てくれと言う、正座しこぶしを握り締めジート待っていたところ、

オギヤ−と言う声に、涙がどっと溢れ出し止めどなく頬を伝わった。

その年の12月中頃、前の住居に戻り新年を親子三人で迎え、秋、台風時期となり落ち着いて勤務も出来ない状態であったので、転勤を申し立て翌年4月鳥羽に転勤することとなった。

1961/4 鳥羽海上保安部

乗船船舶:巡視船こうず、同はまちどり、巡視艇ふゆずき

始めて官舎に入る、六畳一間の六軒長屋、共同炊事場、共同風呂、共同トイレこれが普通であり、官舎に入れるだけ増しで特別な感慨はない。

巡視船こうず乗船中は遠洋の海難救助が多かったような気がする、フィイリッピン近海で遭難した漁船の曳航等。

在るとき、長期の海難救助が予想される緊急出港命令がかかった、このとき、妻が急に腹痛を訴え直ぐに病院に連れて行き、診断の結果暫く病院で様子を診るということであったように記憶する、家には4才と1才の子供がおり、途方にくれたことがある。

この行動は下船することになり、替りに乗船してくださった、牛田さんに深甚なる謝辞を申し述べ、厚く御礼申し上げます。

このような場合、職業的使命があり、家庭は他にお願いして出動すべきでないかと、心に懸かったものの一つである。

家族を残して嵐の中に出て行く夫、それを見送る妻の心情、留守家族を守る者同志が連帯して、困った家庭があったら支援する組織を創り、夫が心置きなく働ける環境つくりも必要でないかと思うものである。

1962/9/11 長男出生

入港したら、長男が生まれていた。

1967/4 NHK学園高校(通信教育:四年制)入学、1971/3 同学園高校 卒業

 太平洋戦争酣の小学校高等科の2年間はろくに勉強もしておらず基礎学力も無い、また、同僚は次々と保安大学校に進んで行く者もあり、その入学試験の答案用紙を見ても理解出来ない、この答案を解ける学力を付けようとしたものである。

 ラジオによる学習で、出航中は妻に録音テープをとって貰った、ラジオを聞かないとリポートが書けない仕組みになっており、聞き逃す訳にはいかない、この四年間の学習は小生に執っては多大な財産となった。

 学力が付けば大学校に進んだも同然、また、自分の実力も認識しておるが故に上進の道を諦めた。

 1970/4 尾鷲海上保安部

 乗船船舶:巡視船もがみ

 外洋での荒天時の海難救助行動が記憶に残る。

 1971/4 自宅を持つ

 愛知県扶桑町に、敷地約60坪、建坪約18坪平屋達、後に10坪建て増し。

自宅を持ち単身赴任の始まり、尾鷲で1年。

1972/4 第四管区 水路部

 乗船船舶:測量船あこぎ 同ふかえ 同いせしお

 自前の水路測量は年に一、二回で殆どは委託測量で、水路部管理課に席を置き、自宅通勤を5年間、普通のサラリーマン生活を味わう。

 1977/3/20 鳥羽海上保安部 浜島分室

 乗船船舶:巡視艇きよしも、同いせかぜ

 当部署は、岩礁帯のある布施田水道があり、しばしば座礁事故が発生した。

 ミイラ取りがミイラになった裏話、布施田水道の岩礁に小型鋼船が座礁という情報で出動、暗夜であったが海上は平穏であった、水路から百メートル足らずの距離の岩礁帯に明かりを灯し傾いている200トン位の小型鋼船を発見した。

 あの船が入って行ったのなら、その1/1020トンの巡視艇なら入って行けるだろうと誰しも思うものである。

 海図を精査し深い所を見定めて該船に向かったが、ドドーンという衝撃と共に片舷のエンジンが止まってしまった、こうなったら前に進むしかなく該船に辿りつき一夜を明かし、明るくなって巡視船に救出された。

 岩礁帯は想像以上に潮の流れが速く、操船が意のままにならないこと、夜間は絶対に近ずいてはいけないことを体得。

 公害事犯として、ある養鰻場から大量の汚泥を海域に排出した事件、養鰻池に入り汚泥の量の状態、海域に排出された量の特定等5人が一丸となって取り組み立件した事件であった。

 1980/4 名古屋海上保安部

 乗船船舶:巡視艇きそかぜ、同しらゆり(儀装)

 1984/2 海上保安大学校

 業務研修、約一ヶ月

 1984/3/15 鳥羽海上保安部

 乗船船舶:巡視艇まきぐも

 今までより一回り大きいPC型巡視艇10人乗組み、主に伊良湖水道とその付近海域の警戒業務。

 公害事犯の一つに、伊良湖水道を哨戒中、外国船籍の貨物船がビルジ(船底に溜まった油性混合物)を排出して航行しているのを発見、停船させ、短時間に立件送致した事件。

警備業務での裏話、在る漁業違反事犯の取り調べが終わって、天然の鯛、我々の口には入らない一度食べてみたいと言うような事を言ったもと思う。

 或る日伊良湖水道を哨戒中、なにか合図をしている船があるので近ずくと、鯛を掲げて艇内に放り込もうとしている、それだけは勘弁してくれと、最敬礼して離れてきたことがある。

 また、網元の取り調べが終わって別れ際に、仕事を離れて遊びに来たとき寄って下さいとも言ってくれた。

 斯様な場合、当方側としては憎悪の対象でないかと常日頃思っていたものであるが、しかし、上記のような事を知ってからは、共に海という土俵で働く者同志、一脈通じるものがあるように思われた。

 ショクだった事、若い有能な部下が突然病死したとき、昨日まで元気で一緒に働いていたのに、信じられなかった、親が亡くなったときは順番と諦めていたが。

 1987/4 神戸海上保安部

 乗船船舶:巡視艇うらなみ

 主に明石海峡航路哨戒、丁度、明石海峡大橋の基礎工事が施工中であった。

 この海域は通行船舶も多く、また、好漁場であることから、或る時期になると網を曳く漁船によって航路が塞がれ一般船舶が立ち往生することもある、そんな時は航路を空けるよう指示して回ることもあり、漁業と商船の共存共栄の海域で、生活権の入り込んだ法規制を超えたものがあるような感じがした。

 想い出の一つに、休暇を取って神戸市主催の六甲全山縦走をやったこと、須磨浦から宝塚までの56kmを完走。

 1989/4 名古屋海上保安部

 乗船船舶:巡視艇しらいと

 古巣の名古屋に帰ってみると、同輩が陸上勤務に替っており、世代交代が進み一人取り残されたような違和感があり、ここは潮時と退職を申し出て、翌年4月から伊勢湾海難防止協会に就職することとなった。

 1990/4 海上保安庁 退職

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今までのことについて

今、振り返ってみれば、現役時代が我人生であり、山出しの少年が夢見た外航航路の船には乗れなかったが、海上保安庁で働けたことを深く感謝するものである。

海上保安庁の正義仁愛の旗のもと海難救助を任とするものにあって、海難救助出動は当然のことであり、その数を数えることもできないし、また、特筆すべきことでもないと思い触れてこなかったものである。

しかし、常に私の脳裏から消えることの無い場面がある。

尾鷲勤務のとき、小型鋼船が沖合いの外洋で荒天のため荷崩れし、船体が傾斜浸水沈没の恐れありという海難情報で出動した。

 風浪絶する海上、該船は傾き沈没の危機にあった。

 本船からモヤイ銃を発射、導索をとり船間距離を保ち、ゴムボートが投下された、ボートは木の葉のように揺れ水を被っていた。

 このボートに最初に飛び込んで行ったのは、同僚の「西村 徹」だった。

 彼は、徹ちゃん と皆から親しまれていた、兄貴の後に続けと、日頃可愛がられていた部下が二人ボートに飛び込み、荒海の中導索を伝わって行き、該船から乗組員を救出したものである。

 彼は40才代のとき、病で亡くなっている。

 勇敢だった彼のあの場面を想うとき、私の現役時代を総て覆い尽くし、他は霞んでしまう。

 実は自分史を執筆するに当たって、このことが常にテーマとして脳裏にあり、ここに、書く事ができ、荷が軽くなったような気がする。

 これ以上執筆の気力がないので、筆を折る。
2003/1/18
                                                
 
   
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